【新刊紹介】戦後の日米関係にも影響力:ハーバート・パッシン著『米陸軍日本語学校』

著者は後に米コロンビア大学教授となる文化人類学者で、若い頃から日系人の発音しにくい名前、時には滑らかで時には歯切れのよい日本語に興味を持っていた。そのことを、陸軍日本語学校関係者の友人に話したのが縁で、志願し、1944年春、ミシガン大学にあった同校に入った。27歳で、妻と幼い子がいた。

18か月のコースを終えれば少尉に任官し、言語将校となる。研修生は7、8人を1クラスとして、成績順に20~25クラスに分けられ、学校側は1、2週間ごと組替えして競わせた。教室では英語が禁じられ、日本語のみ。漢字カードを持ち歩き、寸暇を惜しんで暗記した。日本人の生活ぶりや、考え方を知るため、映画もよく見た。日本の軍歌を歌い、行進したことも。

「英語国民が他の欧州語を3、4か月集中的に学習すれば、相応の成果が得られる。だが、日本語の学習には一つの壁があり、十分な知識と能力を蓄積して壁を越えない限り無力も同然」と著者は述べている。

途中で終戦となったが授業は続き、45年12月に卒業後、来日した。米陸軍の座間キャンプに入るが、残飯を求めて数キロも遠くからやってくる日本人たちを見て、敗戦国の食糧不足を実感した。

「出会った日本人は、不愉快な話題を避けようとしていた。日本の過ちをわび、指導者が間違っていたとか、国民が従順すぎたと言って、悲しそうにうつむいた。日本人が、身内が戦死したことを言ってから突然笑うのは、慣れるまで長い時間がかかった」と記している。

日系人で陸、海軍日本語学校に学んだのは合計で約2000人。このうちの3分の1が戦後の日本と関わりを持った。ドナルド・キーンや、日本人初のノーベル文学賞受賞の川端康成らの作品を英訳したエドワード・サイデンステッカー(ともに海軍)など著名な知日派が含まれている。